(4)棚田のルーツを探る

本日は、シンポジウム『棚田のルーツを探る』にお集まりいただきましてありがとうございます。また、全国からきていただいた棚田学会会員のみなさま、遠いところを紀の川市にようこそおいでくださいました。

昨年5月の棚田博士・中島先生の講演会から1年を経過し、紀の川市にあるという「文献上日本最初の棚田」について、紀の川市と棚田学会が一緒に知見を深めていこうと趣旨で、今回のシンポジウムを企画いたしました。

実は、昨年の中島先生の講演から本日までの間に、紀の川市にとって少々残念なことが判明しました。

「文献上日本最初の棚田」と考えられていた紀の川市桃山町元地区の棚田よりも、70年ほど古い文献に「棚田」という言葉が使われていたのです。

場所は、お隣のかつらぎ町の東渋田地区で、史料は、建武5年(1338年)の『志富田荘検注帳』です。検注とは、中世、荘園で行われていた土地調査のことです。高野山領であった志富田荘で検注を行った帳簿の中に、「棚田」という言葉が記載されていたのです。このため、「文献上日本最初の棚田」については、かつらぎ町に譲らざるを得なくなりました。

この文献を紹介していただいたのは、和歌山県立博物館学芸員の高木徳郎さん(現早稲田大学准教授)です。

本日は、基調講演に早稲田大学教授の海老澤衷先生を迎えて『棚田発祥地としての紀の川流域』という講演をいただいた上で、高木さんも交えパネルディスカッションを行い、棚田について議論を深めていきたいと思います。

◆棚田とは?

皆さんは、「棚田」という言葉からどのような田んぼを思い浮かべますか?
紀の川市の近くで有名なのは、有田川町清水の「あらぎ島」の棚田ですね。蛇行する有田川にとりかこまれるように広がる、美しい扇状のこの棚田は、四季折々姿を変えて魅了されます。

あらぎ島の棚田(有田川町)

中島先生の定義によれば、棚田とは、20分の1以上、つまり20メートル歩くと1メートル標高が上がる、そういった勾配以上の傾斜地にある水田としています。この定義によれば、全国の水田のおよそ8%が棚田と位置づけられます。

棚田には、お米をつくるという基本的な役割以外の様々な機能があります。これを多面的機能といいます。たとえば、洪水防止、水源かん養、良好な景観形成、良好な景観の形成、保健休養機能など様々な役割があるわけです。

一方、棚田地域は過疎化・高齢化の危機にさらされています。耕作放棄がすすみ、のり面崩落など荒廃が進んでいる棚田も多く見られます。

こういった中、棚田の保全を進めていくことが喫緊の課題になっています。

◆棚田保全の潮流

全国の棚田保全の取組が本格的に動き始めたのは、平成7年からです。

この年、「万里の長城にも匹敵する」と司馬遼太郎に賞賛された神在居(かんざいこ)の棚田を有する高知県檮原(ゆすはら)町で「棚田サミット」が始まりました。このサミットは、全国の棚田地域の自治体や活動家が集まって棚田の役割などを話し合うものです。

長野県千曲市の姨捨(おばすて)の棚田(第3回)や石川県輪島市の白米の千枚田(第7回)など全国屈指の棚田地域がこのサミットを招致しています。

そして、平成25年、和歌山県の有田川町の「あらぎ島」で棚田サミットが開催されることが決定しています。これは近畿で初めての棚田サミットとなります。

第1回サミットとあわせて、都市住民が主体となって棚田を守っていこうという「棚田ネットワーク」が設立されました。

平成11年には、棚田を学問の対象としていこうという「棚田学会」が発足しました。農業土木や地理、文化・歴史学など一級の研究者が集い、学際的な棚田の研究が進められることとなりました。

このように、棚田保全の取組は、「官」主導ではなく、「民」主導で進められてきたことに大きな特徴があります。

このような流れを受けて、国でも、平成11年に棚田百選を認定し、和歌山県では有田川町の「あらぎ島」の棚田が選定されています。

平成10年、国の補助事業として、棚田を整備する制度が創設されました。棚田地域の実情にあわせて等高線に沿った簡易なけいはん整備も可能となるものです。あわせて、棚田における地域活動を支援するための「棚田基金」も創設されました。

平成12年には、中山間地域等直接支払制度が創設され、棚田地域など条件が不利な農地で農業を営んでおられる方に一定額を支給することができるようになりました。

その後、景観法の制定や文化財保護法の一部改正により、人と自然との関わりの中で作り出されてきた棚田などの「文化的景観」を守っていく仕組みができました。

また、平成19年、国民共有の財産である農地・農業用水等の資源を共同で保全する活動などに支援を行う「農地・水・環境保全向上対策」が創設されました。

このように、棚田を保全していく取組は、「民」が引っ張る形で「官」の制度が整えられてきました。

紀の川市にも、鞆渕(ともぶち)や野田原(のたはら)を中心に、多くの棚田があります。紀の川市民が、この「棚田」の価値を再認識し、都市住民等も巻き込む中で、棚田を守っていく取組を進めなければなりません。

 

◆近畿初の棚田サミットに向けて

日本で文献上最初に記されたかつらぎ町東渋田の棚田、紀の川市桃山町元の棚田跡、そして棚田百選にも選ばれた有田川町の「あらぎ島」の棚田、これら和歌山県を代表する棚田はいずれも、高野山領だったところです。

和歌山県は、紀の川南岸の広い範囲が高野山領でした。和歌山県は徳川御三家の紀州藩のイメージが強くこの「高野山領だった」という事実が忘れられがちです。紀の川市でも、鞆渕・名手・荒川荘などが高野山領でした。しかも、名手荘は嘉承(かしょう)2年(1107年)、荒川荘は平治元年(1159年)、鞆渕荘は元弘三年(1333年)に高野山領になるなど、平安時代や室町時代以来の歴史があるわけです。

このように、高野山は和歌山県の歴史的な棚田地域、棚田発祥の地と非常に縁が深いわけです。

先日、和歌山県の仁坂吉伸知事の講演の中で、高野山から聞いた話として「高野山には現在の貨幣価値で70兆円もの価値がある財宝がある」ということを言われていました。保険会社の試算だそうです。

一方、その高野山の資産形成を支えてきたのは、実はこの高野山領、つまり私たちの紀の川市にかつてあった荒川荘をはじめとした棚田地域といえるのではないでしょうか。

平成25年に有田川町で行われる近畿初の棚田サミットに向けて、今後、高野山と棚田との関係をはじめとした「棚田のルーツ」を皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

シンポジウム『棚田のルーツを探る』

※このシンポジウムの内容については、『恵みの源』という小冊子にまとめています。添付CDにもPDFが入っていますので、ぜひ、ご覧ください。
(平成20年5月「棚田のルーツを探る」講演を再構成)