医聖・華岡青洲先生は紀の川市が誇る偉人です。文化元年(1804年)、世界ではじめて全身麻酔薬による乳がんの摘出手術に成功したことは、あまりにも有名です。作家・有吉佐和子の名作『華岡青洲の妻』でも妻・加恵(かえ)や母・於継(おつぎ)の献身的な人体実験が紹介され、一般の方々にも広く知られることになりました。
青洲先生は、紀の川市平山地区で生まれ、23歳から26歳まで京都で学問を修めた以外は、この平山の地を離れることはありませんでした。当時医学の研究が盛んに行われていたと考えられる江戸、京都、長崎に定住することなく草深い平山の地で全身麻酔薬による乳がん摘出手術に成功し、また、「春林軒」という医学校を創設して全国各地の人材を育成したということは、地方分権の観点からも非常に大きな功績と考えられます。
現在でも、地方の優秀な学生は、東大、京大をはじめとする都会の大学に進学しそのまま研究生活にはいってしまうことが多いと考えられます。交通の便も発達していない江戸時代に、草深い平山の地でどうやって華岡青洲先生は世界的な偉業を達成し、また、全国に門下生を輩出した医学校「春林軒」によって日本の医学教育に貢献できたのか。その理由を探っていきたいと思います。
◆なぜ偉業が達成できたのか
なぜ青洲先生は、草深い平山の地で全身麻酔薬による乳がん摘出手術という偉業を達成する事ができたのでしょうか?
第1に、中国への医聖・華蛇(かだ)へのあこがれから京都遊学中に高い理想を掲げたことにあると考えられます。
青洲先生は、23歳から26歳まで、京都に遊学して、吉益南涯(よしますなんがい)と大和見立(やまとけんりゅう)という二人の医学者に師事しました。吉益南涯は実証主義の古法医学家であり、大和見立は最新式のオランダ医学家でしたので、青洲先生は、京都で和蘭両面から医学を学んだと言っていいでしょう。
京都で先生は、中国の医聖・華蛇の麻酔医術について学ぶ機会がありました。華蛇は、中国の三国時代(220~280年)、今から1700年以上も前に麻酔薬を調合し切開手術などを重ねた名医です。蜀の名将関羽も華蛇の手術を受けたひとりと伝えられています。卑弥呼の記載で有名な『魏志』にも、華蛇について記述があります。青年時代、華蛇へのあこがれを抱いたことが、青洲先生の麻酔薬への研究を決意させたのではないでしょうか。
第2は、京都遊学中、長門生まれの名医・永富(ながとみ)独嘯庵(どくしょうあん)(1732~1766)の乳がん手術に関する著述と出会ったことです。
永富独嘯庵は、その著書『漫遊雑記』において、次のようなことを書き記しています。
「乳がんは昔から不治の病とされてきたが、オランダの書物に『最初まだ梅の種くらいの時に、よく切れる刀で切りとり、その後は傷を治す方法で治療するとよい』とある。これはよく味わうべき言葉だが、自分はまだ試していない。ともかくも書き記して後世のために残しておく。」
京都遊学中に出会った青年時代の知識が、約20年後の世界初の「全身麻酔薬による乳がん摘出手術」の成功に結びついていく訳です。
しかしながら、青洲先生は、この成功に至るまでに、家族を巻き込んで大変な苦労を強いられることになります。
◆青洲先生の使命感
青洲先生が、草深い平山の地で全身麻酔薬による乳がん摘出手術という偉業を達成できた一番大きな理由、それは、先生が「庶民大衆の病を治す」という使命感を常にもっていたことではないでしょうか。
青洲先生の実母・於継は、紀の川市の東隣・かつらぎ町丁之町の出身で、賢婦人として知られています。妻・加恵とともに青洲先生の麻酔薬の実験台に自ら進んでなったことでも有名です。この母・於継が、青洲先生が平山の地で研究を続ける決意をする上で大きな役割を果たしたことはあまり知られていません
実は、青洲先生が26歳で平山に帰って父の医業を継いだのち、京都遊学中に抱いた志を達成するために、再び都会に出たいと考えたことがあります。しかし、母・於継は、青洲先生のこの願いを許すことなく、この平山の地で病人を治すことの尊さを訴え、麻酔薬の研究を平山の地で続けることを勧めたといいます(呉秀三『華岡青洲先生及其外科』P53~54)。
結局、青洲先生は、町医者として病人の診察をするかたわら、ひとり故郷の野山を歩きまわって薬草を探し、麻酔薬の研究に没頭しました。内外の書物も集め、どん欲に知識を吸収したようです。そして、母・於継と妻・加恵の命もいとわぬ協力の下、ついに「通仙散(つうせんさん)」という麻酔薬を完成させます。そして、全身麻酔薬「通仙散」を用いた乳がん摘出手術に世界ではじめて成功したのは、文化元年(1804年)、青洲先生が45歳のときでした。
◆ため池にこめた青洲先生の想い
「水みたば心をこめて田うへせよ 池の昔を思ひわすれず」
華岡青洲震
青洲の里の北西500mぐらい行ったところの県道ぞいに「垣内池(かいといけ)」というため池があります。この地域は、昔から水に苦労したところで至るところにため池が造られていますが、この池は、付近の農民のために青洲先生が造ったものなのです。

文化6年(1809)年、青洲先生が50歳のころのことです。この付近の農民は干ばつと税金との二重苦にさいなまれ窮迫のどん底にありました。この状況をみかねて、私財を投げ打って土木工事を起こし、でき上がった池を「垣内池」と命名、そのまま農民共同のものとして与えたそうです。
この池のかんがい面積は約1ヘクタール程度ですが、現在に至るまで付近の農業用水を確保するために使われています。
紀の川市内には、786箇所ものため池があります。市の基幹産業である農業を支えているのも、「垣内(かいと)池」をはじめとするため池群だといって過言ではありません。
医業において大きな足跡を残される一方、地域の振興についても、青洲先生が深い思い入れをもっていたことが偲(しの)ばれます。
写真は、垣内池とそのほとりに残る「歌碑」です。この碑は、先生みずから建てたものと言われ、後世の農家を戒めたものとされています。食料自給率が40%となり、日本の農業の在り方を問われている現在だからこそ、この歌の意味をかみしめてみる必要があるかもしれませんね。
◆アストラゼネカ社のCSR活動
平成20年10月、世界的な製薬会社であるアストラゼネカ社がCSR(企業の社会的責任)活動の一環として青洲の里をボランティアで清掃していただけることになっています。

アストラゼネカ社は、がん治療薬や麻酔薬で世界的なシェアを誇る企業です。CSR活動にも力を入れ、ニューズウィーク誌日本版の世界の企業ランキングでも常にトップクラスに位置しています。日本でも平成18年から3千人の社員が一斉に高齢化の進む棚田地域で草刈などを行うプロジェクトを展開しています。
今回、棚田ネットワークの中島峰広代表の紹介を受けて、青洲の里の清掃活動を行っていただけることになりました。青洲友の会の皆様にも、清掃活動で一緒に汗を流していただくほか、昼食のおにぎりやおでんの炊き出しにもご協力いただけると聞いています。
全身麻酔薬による乳がん摘出手術に世界ではじめて成功した青洲先生のお膝元で、世界的な製薬会社のアストラゼネカ社の方々と一緒にボランティア活動ができることは、大変意義のあることだと考えています。

10月には、青洲の里を舞台に青洲まつりも開催されます。アストラゼネカ社の方々の協力できれいになった青洲の里に、「ようこそおこしなして」の心で観光客を迎え入れたいものですね。