(3)棚田の起源は紀の川市?

6―⑧棚田博士・中島峰広先生

「皆さんは大変な宝物をもっている。しかし、残念ながらそのことにお気づきになっていない。棚田の起源は紀の川市なのです」

平成19年5月、紀の川市の講演会場を埋め尽くした500人の聴衆は、中島峰広先生のこの言葉にはっとしました。

中島先生は、早稲田大学名誉教授で、全国の棚田に精通した「棚田博士」と言われている方です。

和歌山県下1位の農業生産を誇り、果物が生産の7割を占める紀の川市。「棚田」という言葉は知っていても、紀の川市が「棚田の起源」だったとは、という新鮮な驚きを覚えた人が多かったのではないでしょうか。

先生が、「棚田」という言葉の由来を調べ始めたきっかけは、研究の対象物として「棚田」に取組み始めた際の素朴な疑問からだったそうです。

そこでたどり着いたのが、応永13年(1406年)の高野山文書の『僧快全(そうかいぜん)学道衆(がくどうしゅう)堅義料田(りゅうぎりょうでん)注進状(ちゅうしんじょう)』という文献でした。その中に「棚田」という言葉が現れ、「荒川荘」の東の方にあるとされていました。

「堅義」というのは討論会みたいなもので、学道衆という僧侶の一集団の討論会の費用にするための「料田」がこの棚田だったようです。

先生は、「荒川荘」という地名を頼りに地名辞典をひもとき、紀の川市桃山町の元集落を2万5千分の1の地図で探し出しました。行動派の先生は、すぐさま地元の教育委員会に連絡をとり現地を訪ねることにしました。それが平成10年のこと。残念ながら、そのときは「ここだ」という特定はできなかったそうです。

先生が見当をつけた場所は、丘陵地から沖積地にかけての桃畑です。現地で話を聞くと昭和30年代までは水田だったそうです。同時に案内された黒川にある石積みの棚田を見ても、おそらくこの地域一体が日本有数の棚田地域であったのではないかと考えたそうです。この顛末は、先生の名著『日本の棚田』の冒頭で詳しく紹介されています。

その後、東京学芸大学がこの地域の地籍図に小字境を描いた図面を作成したことがブレークスルー(突破口)となり、早稲田大学の海老沢教授の精力的な研究により、高野山文書にある「棚田」の場所を確定することができました。元集落のはずれにある「オイノ池」の下の水田が、注進状に出てくる日本ではじめて文献上記録された「棚田」であるというものです。

6―⑨桃山町元の棚田跡

講演会の前日、私も先生とご一緒して現地に行きました。しかし、「文献上日本最初の棚田」は、国道のバイパスが最近完成したことによりその下に埋まってしまい、その上のオイノ池も潰れてしまっていました。

バイパス横の直壁の階段を降りたところ、「棚田」の末端にあたるところにわずかながら段々の桃畑がありました。

桃の袋がけをされている当地の農家の方にも話を聞くことができましたが、かつて水田だった桃畑がそのように価値のある場所だということは全く知らなかったとのことでした。

私の紀の川市への派遣が決まったとき、中島先生から、

「そこはまさに棚田がはじまったところだ。あんた、よくそこに行ってくれたな」

という言葉を頂きました。

中島先生の講演会は、紀の川市の「宝物」の存在に、改めて私達が気づくきっかけとなったと考えています。

今後、紀の川市の「宝物」である桃山町元の棚田跡について、文化庁や和歌山県立博物館とも連携して、しっかりと調査を進めていきたいと思います。

(平成19年5月 理事通信)