(6)「あら川の桃」の「あらかわ」とは?

本日は、「あら川の桃」の生産農家の皆さんの前でお話しする機会をいただき、大変ありがたく感じるとともに少々緊張しています。

この講演では、紀の川市を代表するブランド「あら川の桃」について、その由来などを皆さんと一緒にたどっていきたいと思います。

「あら川の桃」は、その質の高さ、味の良さから全国的に高い評価をいただいてきました。このブランドは、昭和41年に紀の川市桃山町にある選果場、マンモス・丸百・第一共選ができて以来使われており、平成6年に商標登録もされています。

この地域に桃が導入されたのは、江戸時代、桃山町段新田地区の村垣(むらがき)弥惣八(やそはち)によって摂津国の池田からもたらされたというのが通説になっています。大阪圏では圧倒的なブランド力をもっていますが、近年の販売高の推移を見ると減少傾向にあり、今後、生産力や販売力の一層の強化が課題となっています。

ところで、「あら川の桃」の「あらかわ」とはどういう由来があるのかご存じですか。

紀の川市桃山町には「荒川中学校」と「安楽川小学校」があります。「荒川」と「安楽川」、同じ「あらかわ」という読み方ですが、小学校と中学校で違う漢字が使われているのを何故だろうと思われてきた方も多いのではないでしょうか。

「荒川」の由来は古く、古事記と日本書紀いわゆる「記紀」までさかのぼります。紀伊の国の荒河(あらかわ)戸畔(とべ)の娘である「遠津(とおつ)年魚眼(あゆめ)眼妙媛(まくわしひめ)」が、第10代の崇神(すじん)天皇に嫁いだ旨の記述が日本書紀にあるのです。同様の記述が古事記にもあります。戸畔(とべ)とは、荒河地方を治める者のことで、今で言えば、紀の川市長のことを言うのでしょうか。

その娘さんが天皇家に嫁いだということですから、古くからの紀の川市と天皇家の深い結びつきが偲(しの)ばれます。

さて、遠津年魚眼眼妙媛は、どんな女性だったのでしょうか。「紀伊国(きいのくに)名所図会(めいしょずえ)」によると、「遠津(とおつ)」とは荒川の東、紀の川の南岸にある「麻生津(おうづ)」のことで、音が近いため転訛(てんか)したものだそうです。

麻生津周辺の紀の川では、昔から鮎(あゆ)を名産としていたようです。年魚(あゆ)は目の形がとても麗(うるわ)しい魚ですので、この周辺を領していた荒河戸畔の娘の眼色の美しさを、鮎の目の形の美しさにたとえたようです。

遠津年魚眼眼妙媛は崇神天皇に嫁いだ後、「豊城(とよき)入彦(いりびこの)命(みこと)」と「豊鍬入(とよすきいり)姫(びめの)命(みこと)」という2人の子どもに恵まれました。娘のほうの「豊鍬入(とよすきいり)姫(びめの)命(みこと)」は、初代斎宮(さいぐう)と言われています。斎宮とは、天照大神を祀(まつ)った女性神官のことです。

荒河戸畔と遠津年魚眼眼妙媛

遠く記紀の時代からあった「荒川」という地名。その「荒川」から「安楽川」に変わっていったのはどういった経緯があったのでしょうか。

「安楽川」という地名が使われだしたのは、平安時代末期、鳥羽上皇の寵妃(ちょうひ)であった美福門(びふくもん)院(いん)得子(なりこ)と深い関係があると言われます。

美福門院は、鳥羽上皇が亡くなった後、その菩提をとむらうために高野山の壇上伽藍(だんじょうがらん)に六角経蔵(ろっかくきょうぞう)(荒川経蔵(あらかわきょうぞう))を建立しました。

そして平治元年(1159年)、鳥羽上皇供養の法会(ほうえ)の供料(くりょう)として、美福門院は、荒川荘(現在の紀の川市桃山町の一部)を高野山に寄進したのです。

その翌年、美福門院は44歳で亡くなり、京都の安楽寿院(あんらくじゅいん)で荼毘(だび)に付されます。遺骨を高野山に納めてほしいという遺言どおり、女人禁制(にょにんきんぜい)の解禁(明治五年)に先立つこと700年、美福門院の遺骨は高野山の不動院に迎えられました。

「荒川」が「安楽川」と表記されるようになったのは、美福門院が「荒」の字に安楽寿院の「安楽」の字を充てたことにはじまるという説があります。一方、高野山の学僧が仏教語の「安楽」(仏の境地、心の安らぎ、心楽しさ、心身の理想の安らかさをいう)を「安楽川」に充てたという説もあります。いずれにしても、「荒川」から「安楽川」へ、伝説の貴婦人・美福門院とのかかわりの中で、「荒ぶる川」から「祈りの川」に変わってきたといえるでしょう。

美福門院得子と荒川・安楽川

遠津年魚眼眼妙媛や、美福門院など、美しい女性の伝承に彩られながら、「あらかわ」という名称が「あら川の桃」というブランド名で継承されてきたことは、私たちの誇りとするべきものであると同時に、歴史のロマンを感じさせてくれます。

この由緒ある「あら川の桃」の販売額を再び上昇傾向にしていきたいものです。

このためには、担い手対策や耕作放棄対策といった生産力の強化だけでなく、桃の販売力の強化を図ることも大切です。平成19年、農山漁村活性化プロジェクト交付金という補助事業が採択され、竹房の国道バイパス沿いに新しい選果場「西部流通センター」が誕生する予定です。

糖度センサーなど最新の設備は「あら川の桃」の販売力の強化に資するものと思います。

また、今後、中国等で富裕層が増えて、大きくて美味しい桃の輸出の需要は一気に伸びる可能性があります。関西国際空港から1時間もかからないという紀の川市の利便性の良さは、国内の他の産地と比べて大きな有利性をもっていると言えるのではないでしょうか。

また、桃りゃんせ夢工房での桃ジャムづくりなど体験学習を通じて、「あら川の桃」に親しみをもってもらうことができるはずです。

桃りゃんせ夢工房

毎年4月の桃の季節、紀の川市桃山町では、桃山まつりが開催されます。「桃源郷」とも言われる美しい桃の花々を見るために多くの観光客が紀の川市を訪れます。紀の川市の「あら川の桃」をアピールする絶好の機会として、観光客をもてなしたいものですね。

桃源郷と桃山まつり